方広寺鐘楼(京都東山)|徳川家康公を呪う「国家安康・君臣豊楽」の梵鐘

方広寺(京都東山)国家安康の梵鐘概観徳川家康公ゆかりの地

お寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の言葉が時の天下人・徳川家康公を激怒させ、大坂の陣は起こり豊臣家が滅亡した――

学生時代、歴史を動かしたこの碑文を、日本史の教科書や資料集で見た人も多いのではないでしょうか。

今回は、京都・東山の方広寺を訪れ、ついにこの歴史的梵鐘を見ることができました。

方広寺とは

方広寺とは、豊臣秀吉が発願した大仏を安置するための寺として、木食応其によって創建された天台宗山門派のお寺です。

京都府京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2にあります。

 

方広寺(京都東山)

松永久秀が焼き討ちした東大寺大仏に代わる大仏として、天正14年(1586年)豊臣秀吉が発願したのが方広寺の始まりです。

文禄4年(1595年)の完成当時は、妙法院、豊国神社、京都国立博物館、三十三間堂などの敷地も含む広大な敷地でした。

慶長4年(1599年)、秀吉の嫡男・豊臣秀頼が銅造での大仏復興を図りますが、慶長7年(1602年)に火災を起こし、大仏と大仏殿は全て焼失しました。

慶長13年(1608年)、以降は片桐且元を奉行として再建が開始され、慶長17年(1612年)には大仏殿と大仏が完成しました。

慶長19年(1614年)、遂に梵鐘が完成し、後は家康公の承認を得て開眼供養の日を待つ事になりましたが、しかし家康公は同年7月26日に開眼供養の延期を命じ(方広寺鐘銘事件)、それが大坂の陣による豊臣家滅亡へと繋がっていきます。

明治3年(1871年)、方広寺境内の大部分が収公されて現在の規模となりました。

今も残る「大仏殿の石垣」

方広寺の門には石垣がありますが、近隣の豊国神社や国立博物館西側の通りにある石垣も含めて、かつて方広寺大仏殿の石垣だったものが現存している石垣だそうです。

方広寺(京都東山)入口

こちらが、方広寺の入口です。

写真の通り、方広寺には山門がありません。

写真の奥側にある巨石が、かつて方広寺大仏殿の石垣だった石です。

方広寺(京都東山)大仏殿石垣

実際、方広寺の石垣は国指定史跡の指定を受けておりますが、それが門の横に堂々と連なっていますので、方広寺を訪れる際はぜひ見逃さないようにしてください。

方広寺・本堂

方広寺は入口から入るとすぐに本堂や鐘楼があります。

方広寺(京都東山)本堂

方広寺の境内は入口から入って左手が本堂、右手が「国家安康の梵鐘」鐘楼、奥が手水舎となっております。

方広寺・手水舎

入口から向かって奥の方に手水舎があります。

方広寺(京都東山)手水舎

訪れた当時は、使用できない状態になっていました。

方広寺・境内の様子

方広寺は豊国神社と隣接しているため、境内から豊国神社を眺めることができます。

方広寺(京都東山)境内から見える豊国神社

なお、方広寺の境内からは直接、豊国神社の境内に入ることができます。

「国家安康の梵鐘」方広寺鐘銘事件

方広寺の境内にある梵鐘は、かの有名な事件を引き起こしました。

鐘に彫られた「国家安康」と「君臣豊楽」の言葉が、何と「家康公を呪い、豊臣家の繁栄を願うもの」であると家康公を激怒させました。

この「方広寺鐘銘事件」が後の「大坂の陣」へと繋がっていきます。

では、まず問題の梵鐘を見てみましょう。

国家安康の梵鐘

境内に入って右手にある鐘楼が「国家安康の梵鐘」の鐘楼です。

方広寺(京都東山)国家安康の梵鐘鐘楼

こちらが、歴史的な「国家安康の梵鐘」です。

梵鐘に刻まれた鐘銘のうち、白い線で囲まれている部分が問題の「国家安康」「君臣豊楽」の部分です(分かりやすい)。

方広寺(京都東山)国家安康の梵鐘概観

梵鐘までは少し距離があるため、実物を見学する際はぜひ双眼鏡やカメラのズームを利用することをおすすめします。

方広寺(京都東山)国家安康の梵鐘「国家安康君臣豊楽」

なお、梵鐘にばかり目が行きがちですが、鐘楼の天井も忘れずに鑑賞しましょう。

方広寺(京都東山)国家安康の梵鐘鐘楼天井

こちらは元々、伏見城の化粧室の天井に描かれていた天井画を移築したものですので、中々に見応えがあります。

方広寺鐘銘事件とは

方広寺鐘銘事件については、Wikipediaに分かりやすい記事がありましたので引用します。

方広寺鐘銘事件

方広寺の鐘銘
慶長19年(1614年)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させている。

且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。

8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。

この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。たとえ、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。

引用元:大坂の陣 - Wikipediaより抜粋

方広寺鐘銘事件については「家康公による強引なこじつけや捏造」というイメージを持っている方も少なくないように思いますが、実際には家康公ご本人というより林羅山や金地院崇伝などの側近らの動きが影響を及ぼしたのかもしれません(崇伝の関与は当時の史料からは伺えないようですが)。

しかし、晩年の家康公はよく「腹黒い陰謀家」や「狸親父」といった人物像で描かれますので、家康公が裏で糸を引いていると思われても「いかにも、ありそうな感じ」になるのだと思います。

なぜ家康公は「国家安康」「君臣豊楽」の碑文に激怒したのか?

「国家安康の梵鐘」鐘楼には、写真の通り案内看板が設置されています。

方広寺(京都東山)国家安康の銘鐘・案内看板

この案内看板によると、方広寺鐘銘事件は家康公による謀略であり、家康公側近の南光坊天海や金地院崇伝も深く関わっていると紹介されています。

方広寺建立の経緯から、豊臣家びいきなのは仕方ないのかもしれませんが、しかし家康公ファンの筆者としては以下の説を提唱することで、この陰謀説に反論したいと思います。

梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康および徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料にされたという。この大仏も寛政10年(1798年)に落雷が大仏殿に落ち、火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった。

前述の「国家安康」の鐘は現存して重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。

引用元:方広寺 - Wikipediaより抜粋

かつて、信長亡き後の織田家が秀吉に臣従することで一大名として生き残る道を選んだように、豊臣家も徳川に臣従することで生き残る道を選んでいれば、歴史は変わっていたことでしょう。

「方広寺鐘銘事件」も起こらなければ、その先の「大坂の陣」も起きず、豊臣家は生き延びたかもしれません。

そういう意味で改めて梵鐘を眺めると、歴史の1ページに触れることができたような感慨深さが込み上げてきました。

ぜひ、皆様もこの歴史的梵鐘を1度は見学してみることをおすすめします。

案内情報

  • 名称:天台宗山門派方広寺・方広寺鐘楼(国家安康の梵鐘)
  • 住所:京都府京都市東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
  • 交通:京阪電車「七条駅」下車徒歩約8分

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