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源頼朝公落馬地|源頼朝公の死因は? なぜ死んだ? 怨霊説!?

源頼朝公落馬地(遠景)日本史|史跡巡り

今回は神奈川県平塚市にある史跡『源頼朝公落馬地』を訪れました。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は鎌倉幕府執権・北条義時が主人公ですが、その物語は源頼朝公亡き後の鎌倉幕府における「御家人13人による合議制」が舞台です。

では、その鎌倉幕府を開いた源頼朝公は、なぜ亡くなったのでしょうか?

その死因は何だったのでしょうか?

史跡『源頼朝公落馬地』

史跡『源頼朝公落馬地』は、神奈川県藤沢市辻堂2丁目17-1にあります。

現在は、三浦藤沢信用金庫辻堂支店の駐車場前に、看板が1枚設置されているだけの史跡となっています。

源頼朝公落馬地(概観)

ご覧の通り、本当に案内の看板1枚以外には何もありません。

源頼朝公落馬地(概観)

かの源頼朝公を死に至らしめた落馬の地であるにも関わらず、本当に看板1枚のみが立つだけです。

源頼朝公落馬地(正面)

意識して探さなければ、気づかない人も多いのではないでしょうか。

この落馬地にたった1枚立つ案内看板には、以下の通り記されています。

源頼朝公落馬地

源 頼朝公 落馬地
藤沢市辻堂二丁目十七-一

建久九年(一一九八)戊午一二月二七日
将軍源頼朝公、稲毛重成の亡妻元子、追善供養のため造らるる、相模川橋の法要供養に臨席の、頼朝公が鎌倉の館へ帰途、八的ヶ原(辻堂)に差しかかりし時、突然落馬する難に遭遇する。
落馬地は京・鎌倉往還(三浦藤沢信用金庫辻堂支店駐車場前)「保暦間記」に「建久九年の冬、右大将(頼朝)殿 相模川の橋供養に出で、還らせ給ひけるに、八的ヶ原という所にて、亡ぼされし、源氏・義広、義経、行家己下の人々の怨霊現じて、将軍の目を見合わせり」と記され、八的ヶ原とは辻堂の地を指している。
源平物語り関係の書物には、将軍頼朝公は怨霊が目に現じて、落馬したと記述されているが果たして真相は。頼朝公だけしか知る人はいない。
今を去ること八〇九年前、この地にて頼朝公は落馬し、意識喪失し急遽鎌倉の館に護送された。その後も昏睡状態が続き、一月十日頃には一時回復し、京都の九条兼実宛「今年必ズ、シズカニノボリ他ノ事沙汰セント思ヒタリケリ、万一事存ノ外ニ候」と書状を認めた後に再発し、
建久十年己未(一一九九)一月十三日 薨去 享年五十三歳

郷土史家 大石静雄(文責)
平成十九年丁亥(二〇〇七)十二月二十七日 設置
辻堂駅前町内会

引用元:大石静雄[2007]『源 頼朝公 落馬地』看板(辻堂駅前町内会)

源頼朝公の名を知らない日本人はおそらくいません。

にもかかわらず、看板が1枚立つだけとは、何ともさみしいものですね。

源頼朝の死因とは? なぜ亡くなったのか?

実は、源頼朝公が亡くなった死因は諸説あり、現在も特定されておりません。

1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(現在の川崎市)を領していた稲毛重成は、亡き妻(頼朝の妻・北条政子の妹)の供養のため相模川に架けた橋の落成式を行いました。

この落成式に参加した頼朝公は、橋の渡り初めを行い、その帰路に落馬してしまいます。

各資料では、この相模川橋供養の帰路に頼朝公が病を患ったことまでは一致しています。

しかし、その原因は定まっていません。

鎌倉幕府公式歴史本とでも言うべき『吾妻鏡』は「落馬」、関白・太政大臣などを務めた近衛家3代目当主・近衛家実が記した『猪隈関白記』は「飲水の病」、後鳥羽上皇の挙兵により起こった承久の乱を記した合戦記『承久記』は「水神に領せられ」、南北朝時代の足利方の武士が作者であると推定されている歴史書『保暦間記』は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記しています。

そのため、頼朝公の死因は現在でも諸説が論じられています。

なお、頼朝公が亡くなられた年月日については、各資料が一致して「1199年(建久10年)1月13日」と伝えているため、疑問視する説は存在していません。

落馬説

建久9年(1198年)、源頼朝公の重臣・稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻・北条政子の妹)のため、相模川に橋をかけました。

その橋の落成供養の帰り道に、八的ヶ原(現在の辻堂)で落馬したと『吾妻鏡』には記されています。

ただ、その死因が『吾妻鏡』に登場するのは「頼朝の死から13年も後」のことであり、死去した当時の『吾妻鏡』には橋供養から葬儀まで「頼朝の死」に関する記載が全くありません。

これについては、頼朝公の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康公が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として、該当箇所を隠してしまったとする俗説があるそうです。

しかし『吾妻鏡』は家康公が蒐集・復元した「家康版」以外にも諸本ありますので、この俗説は誤りです。

なお、死因と落馬の因果関係についても、その解釈は分かれています。

1つは、脳卒中など何らかの脳血管障害が落馬事故の前に起きていて、その結果として落馬したとする説。

もう1つは、落馬した際の負傷により、頭部外傷性の脳内出血を引き起こして亡くなったとする説です。

また、落馬してから亡くなるまでに17日間あることから、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎を起こして亡くなったとする説もあります。

尿崩症説

落馬により脳の中枢神経を損傷して、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたとする説です。

この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取するようになり(=「飲水の病」)、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない12世紀では死に至る可能性が高いそうです。

糖尿病説

『猪隈関白記』に記されている「飲水の病」は「水を欲しがる病」であり、糖尿病を指すとする説です。

源頼朝公は、当時貴重だった鮭を干して乾かした干物「鮭とば」が大好物でした。

「鮭とば」は鮭をさらに干物にしているので、塩分濃度が高い食べ物です。

従って「鮭とばの食べ過ぎ=塩分過多な食生活」となりますので、頼朝公も塩分過多な食生活を送っていた可能性は十分に考えられます。

しかし、糖尿病の具体的な症状があったという記録が各史料にないため、可能性は低いそうです。

そもそも糖尿病は直接の死因となる病気ではなく、合併症が死因となる病気です。

仮に糖尿病による死だとした場合、当時の人間がそれを死因だと認識した上で「飲水の病」と書き残すとも考えにくく、少なくとも「直接の死因」からは除外されるでしょう。

溺死説

史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れたことが死に繋がったのではという可能性も考えられます。

また、相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至ったことに由来するとも伝わっています。

溺死説によると「飲水の病」は頼朝公が川に落ちて溺れ、水を飲み過ぎたことを意味すると考えられています。

しかし、いずれも根拠のない推測に過ぎない見られています。

暗殺説

頼朝公の実子・頼家(鎌倉幕府2代将軍・頼朝公と北条政子の嫡男)や実朝(鎌倉幕府3代将軍・頼朝公と政子の次男)は、いずれも暗殺されています。

そのため、頼朝公も2人と同じく何者かに暗殺されたため、その事実を隠すべく『吾妻鏡』への記載を避けたとする説です。

また、北条氏に水銀を飲まされて死んだという説もあるようです。

しかし、いずれも根拠は全くありません。

誤認殺傷説

頼朝公が愛人の所へ夜這いに行く途中に、不審者と間違われ斬り殺されたとする説です。

これも全く根拠はなく、証拠以前に「斬り殺した人間」と「遭いに行く予定の愛人」が誰なのか、特定できないことにはそもそも学説として成立しません。

亡霊説

私が本命として推す説が、この「亡霊説」です。

亡霊説は史料『保暦間記』に記されています。

頼朝公が亡くなった当時は、亡霊や祟りが深く信じられている時代でした。

信心深かった頼朝公には、自らの命令で滅ぼした弟・源義経や、平家ゆかりの安徳天皇の亡霊が見えたそうです。

無論、そのままの意味で「亡霊が現れた」とするのは科学的に考え難いのですが、これを「幻覚が見えた」と解釈するならば、可能性は十分にあり得るのではないでしょうか。

例えば、意識障害のような精神病があった可能性も考えられます。

ただし、病名も絞り込めませんし、あくまで推測の域を出ない仮説だと言えます。

その上で、なぜ本命の説として推したいのかといいますと、それは「物語として面白いから」です。

源頼朝公は、類まれな武家の偉人です。

これほど偉大な武将なのですから、落馬や溺死、ましてや暗殺などで亡くなったというよりも、自らが突き進んできた道の半ばで討ち滅ぼしてきた者たちの怨念により、自らの最後を迎えるとした方が物語として面白いと思います。

※学術的根拠は皆無の主張です。

徳川家康公は『吾妻鏡』を愛読して源頼朝を手本にしたから成功した

鎌倉時代に鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』は今日でも有名ですが、この『吾妻鏡』が今日に伝わっているのは家康公のお陰だという事をご存じですか?

実は、長い歴史の中で『吾妻鏡』は散り散りになって各地にありました。

読書家だった家康公が、それらを戦国時代末期に各地で蒐集して、復元させたものが今日に伝わる『吾妻鏡』です。

家康公は『吾妻鏡』を熟読しており、そこから武家政権の経営に役立つノウハウを学び、徳川幕府の開府に役立てました。

2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

鎌倉幕府公式歴史書とでも言うべき『吾妻鏡』と言えば、編纂した鎌倉幕府執権・北条氏の存在が大きく関わっています。

そして、北条氏といえば2022年放送予定の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ですね。

同作タイトルの「13人」とは、源頼朝の死後に発足した集団指導体制である「13人の合議制」を構成した御家人たちを指しているそうです。

大河ドラマ『新選組!』と『真田丸』を手がけた三谷幸喜監督が脚本・原案を担当し、主人公の北条義時を小栗旬さんが演じることが発表されています。

2022年の放送前に、ぜひこの「源頼朝公落馬地」を訪れて、頼朝や北条氏、鎌倉幕府成立初期の権謀術数渦巻くドロドロとした幕府の政治劇に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

アクセス

名称:源頼朝公落馬地
住所:神奈川県藤沢市辻堂2丁目17-1
交通:JR東海道本線「辻堂駅」徒歩約3分

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