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『麒麟がくる』室町幕府「最後の将軍」第15代将軍・足利義昭のプロフィール

NHK[2020]『麒麟がくる』第25話「羽運ぶ蟻」より麒麟がくる

絶賛放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』が各所で話題ですが、いよいよ後の第15代将軍となる足利義昭が登場しました。

今まで出家して覚慶と名乗っていましたが、第25話「羽運ぶ蟻」にてついに還俗して、足利義昭と名乗り始めます。

日本史の授業では散々な評価の将軍として説明を受けた記憶がありますが、この『麒麟がくる』ではどういう将軍として描かれるのでしょうか?

今回は室町幕府第15代将軍にして「室町幕府最後の将軍」となる足利義昭のプロフィールを中心に、僧侶・覚慶の頃や作品の今後の見どころも含めて詳しくまとめたので、最後まで読んでもらえたら嬉しいです。

滝藤賢一さん演じる第15代将軍・足利義昭のプロフィール

大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は明智光秀ですし、その他にも斎藤道三や織田信長をはじめ、木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉・豊臣秀吉)、松永久秀、今川義元、朝倉義景ら魅力的な大名・武将が多く登場しますが、足利義昭も彼らと同じくらい重要な人物ではないかと思います。

そこで、まずは足利義昭の基本的なプロフィールを紹介します。

【足利義昭のプロフィール】

  • 名前:足利千歳丸→覚慶(法名)→足利義秋→足利義昭→昌山道休
  • 生年月日:天文6年旧11月13日(1537年12月15日)
  • 死没:慶長2年旧8月28日(1597年10月9日)
  • 出身地:都(京都)
  • 官位:従五位下・左馬頭、参議・左近衛中将、征夷大将軍、従三位・権大納言、准三后
  • 別名:貧乏公方
  • 墓所:等持院(京都府京都市北区)

足利義昭は足利将軍家の家督相続者以外の子として生まれたため、慣例により出家して仏門に入り「覚慶(かくけい)」と名乗り、一乗院門跡となりました。

しかし、兄である第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出、還俗(仏門から現世に戻る事)して義秋(よしあき)と名乗ります。

その後、美濃国の織田信長に擁されて上洛し、室町幕府・第15代将軍に就任しました。

しかし、征夷大将軍となった後は徐々に信長と対立していき、武田信玄・朝倉義景らに呼びかけて「信長包囲網」を作り上げます。

一時は信長を追いつめたものの、やがて信長により都から追放され、備後国に落ち延びます(室町幕府滅亡)。

なお、実は「本能寺の変」後も将軍職に就いたままですが、豊臣秀吉による政権確立後の天正16年(1588年)にようやく将軍職を辞職しました。

秀吉からは山城国槙島1万石の大名として認められ、高貴な大名としての余生を送りました。

【足利義昭の年表】

  • 天文6年(1537年)都に生まれる。幼名:千歳丸。
  • 天文11年(1542年)出家する。法名:覚慶。
  • 永禄8年(1565年)兄・義輝らが暗殺される「永禄の変」。
  • 永禄9年(1566年)還俗する。足利義秋を名乗る。
  • 同年、従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官される。
  • 永禄11年(1568年)足利義栄が第14代将軍として将軍宣下を受ける。
  • 同年、元服する。「秋」の字は不吉であるとし義昭に改名する。
  • 同年、織田信長・浅井長政・徳川家康連合軍により上洛を目指し近江に侵攻(観音寺城の戦い)、六角勢を打ち破り上洛を果たす。
  • 同年、第14代将軍・義栄が死去。第15代将軍に就任、併せて従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官される。
  • 永禄12年(1569年)信長の作成した『殿中御掟』9カ条を義昭が承認。
  • 永禄13年(1570年)『殿中御掟』5カ条追加、義昭と信長の仲が悪化し始める。
  • 元亀元年(1570年)信長が義昭と共に、三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)苦戦の末に和睦。
  • 元亀2年(1571年)義昭、俗に言う「信長包囲網」工作を開始。
  • 元亀3年(1572年)信長、義昭に対して『17条の意見書』を送付、義昭を批判。
  • 同年、信長に対して義昭挙兵。武田信玄が上洛を開始、三方ヶ原の戦いで家康公の軍勢を破り進軍。
  • 元亀4年(1573年)信玄病没、武田軍撤退。勅命により義昭と信長が和睦。
  • 同年、義昭が和睦を破棄して挙兵するも、信長軍より攻撃を受け降伏。
  • 同年、信長が義昭を京都から追放。天正に改元。信長が朝倉義景、浅井長政を滅亡させ「信長包囲網」崩壊。
  • 天正4年(1576年)義昭、毛利輝元を頼り備後国・鞆の浦に移る。
  • 天正6年(1578年)上杉謙信、死去。
  • 天正10年(1582年)武田勝頼が信長に滅ぼされる。
  • 天正10年(1582年)信長と嫡男・信忠が明智光秀に討たれる(本能寺の変)。その直後、羽柴秀吉により光秀が討たれる(山崎の戦い)。
  • 天正11年(1583年)義昭、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付ける。
  • 天正13年(1585年)秀吉が関白太政大臣となる。その後、2年半の間「関白秀吉・将軍義昭」という状況が続いた。
  • 天正15年(1587年)義昭、京都に帰還する。
  • 天正16年(1588年)義昭、秀吉に従って参内、将軍職を辞した。受戒して名を昌山(道休)と号した。また、朝廷から准三后の称号(待遇)を受けた。秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。
  • 慶長2年(1597年)薨去。

『麒麟がくる』における足利義昭の人物像や今後の見所は?

次に、滝藤賢一さんが演じる足利義昭の役柄についてコメントしていますので、紹介します。

また、このようにもコメントされています。

しかし、第25話ではサブタイトル「羽運ぶ蟻」のタイトル回収となる会話として、光秀と義昭が次の会話をする一幕があります。

義昭「庭の桜を見ておったら、一匹の蟻を見つけてのう。自分の体より遙かに大きな蝶の羽を一所懸命運んでいた。しかし、小石や草が邪魔をして思い通りに進まん。すると見かねたのであろう。仲間の蟻が寄ってきて、手を貸そうとした。ところがこの蟻は頑固な奴で、助けは要らぬとばかりに仲間を振り払って、己だけで運ぼうとする。意地になっておるのじゃ。一匹では無理だというのに」

光秀「それで…どうなりましたか」

義昭「蟻は……私だ。将軍という大きな羽は一人では運べぬ。しかし、助けがあれば——」

光秀「お心は決まりましたか?」

義昭「正直、まだ迷いはある。ついこの間まで坊主であったのじゃ。毎日経ばかり読んでいた男に、武家の棟梁など務まるとは思えん。しかし、私がもし将軍になれば、今までできなかったことができるかもしれん、とも思う」

光秀「できなかったこと?」

義昭「人を救える、貧しい人々を。私一人の力では救える数は限られておる。しかし、私が将軍になれば、今まで手の届かなかった人々を救えるかもしれん。そう思うと、将軍になるのも悪くはない。おかしなことを言うと思うておるのだろうな。物心ついてから寺におる私は、かような考え方しかできぬのじゃ」

光秀「ご立派なお考えと思います。将軍になられるお方がそのようなお考えをお持ちなら、民も救われましょう」

この会話劇に「『麒麟がくる』で描こうとしている足利義昭の人物像」が凝縮しているように思います。

そして、義昭は「協力」を志向しているのに対して、織田信長も朝倉義景も作中では「御輿(将軍=義昭)を担ぐ」「神輿は軽い方が良い」という捉え方をしています。

特に、義昭と信長は今後、協力して上洛を果たしますが、後に対立していき、義昭は信長により京都から追放されてしまいます。

この会話劇は、そうした結末の伏線としても読めるシーンだと思います。

また、義昭という神輿を担ぐ事にした信長は、上洛するため近江に侵攻します。

その際は信長だけでなく、秀吉らの出番も期待できそうです。

なお、この近江侵攻時に行われた「観音寺城の戦い」では、織田信長・浅井長政・徳川家康連合軍が六角義賢・義治父子と戦いますが、残念ながら徳川勢は家康公が派遣した松平信一の軍勢1千のみですので、我らが家康公の出番はあまり期待できなさそうですね。

『麒麟がくる』が描く足利義昭の人物像に対する世間の評判は?

「新たな足利義昭像」を描こうとして注目度が集まる足利義昭ですが、大河ドラマ『麒麟がくる』での描かれ方に、世間の方はどう思っているのか?

SNSをチェックしました。

かなり好印象を持たれているようです。

しかし、中にはこんな意見もありました。

昨今の研究で示されている「超戦闘的な足利義昭像」というのも興味深いですね。

また、興味深い考察もありました。

この対比は大変面白い考察ですね!

しかし、織田信秀は「信長の先進性は信秀の構想だった」説もあり、今川義元の参謀・太原雪斎は幼少の家康公に学問を教えた「先生」でもありました。

また、家康公は晩年、今川義元の菩提寺として江戸に泉岳寺を建立します(赤穂浪士で有名でもある、あの泉岳寺です)。

晩年の家康公は江戸でも岡崎でも浜松でもなく、かつて義元の本拠地でもあった駿府で晩年を過ごした事からも、義元の元で過ごした「人質時代」を割と悪くないと思っていたのかもしれません。

そう考えると、戦国乱世の世に消えゆく者たちもまた、これから興らんとする者たちの礎となった人たちだったのかもしれませんね。

今後、ますます盛り上がるであろう『麒麟がくる』から目が離せませんね!

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