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橘樹郡家跡第32次調査現地見学会に行ってみた感想(川崎市)

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』サムネ画像日本史|史跡巡り

昨日、川崎市教育委員会が行った『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』に参加してみました。

今回は、その概要と感想をまとめたいと思います。

そもそも、橘樹郡家(たちばなぐうけ)とは?

橘樹郡家(たちばなぐうけ)とは、かつて武蔵国橘樹郡にあった郡家の事です。

郡家は、飛鳥時代以降の律令制度において、郡の官人(郡司)が政務を執った役所でした。

田租や正税出挙稲を保管する正倉や、宿泊所などから構成されていました。

地方の統治は、この郡家や国府、駅などで官衙施設を構成して、政治的拠点としていました。

橘樹郡は律令制における武蔵国の一部で、現在の神奈川県川崎市の範囲とほぼ重なります。

2015年、川崎市初の国史跡に指定されました。

橘樹郡家跡の範囲は、現在の神奈川県川崎市高津区および宮前区に広がっており、その総面積は21,000平方メートルを超えます。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』

  • 開催日時:令和2年12月5日(土)13:00〜16:00
    ※各回約30分程度
  • 会場:たちばな古代の丘緑地
  • 住所:神奈川県川崎市高津区千年字伊勢山台423-1
  • 主催:川崎市教育委員会
  • 配布資料:冊子等3種
    川崎市教育委員会[2016]『川崎市遺跡リーフレット① 国指定史跡 橘樹官衙遺跡群 橘樹郡衙跡・影向寺遺跡』
    川崎市教育委員会[2016]『たちばな遺跡マップ2015 古代川崎発見』
    川崎市教育委員会[2020]『橘樹郡家跡(千年伊勢山台遺跡)第32次調査の成果について〜現地見学会資料〜』

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』配布資料

橘樹郡家跡第32次調査 概要

平成27年3月に川崎市初の国史跡に指定された橘樹官衙遺跡群では、さらなる内容解明に向けて、川崎市教育委員会が継続的に確認調査を実施しております。
この度、橘樹郡家跡(古代橘樹郡の役所跡)の調査を11月16日から実施することとなりました。この調査の成果を公開し、遺跡群の生の歴史に触れていただくため、現地見学会を開催いたします。

引用元:川崎市:橘樹郡家跡第32次調査 現地見学会を開催します!

『たちばな古代の丘緑地』が見学会の会場でした。

たちばな古代の丘緑地

今回の見学会に際して、会場の各所にのぼりが設置されていました。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』会場入口

当日は小雨の降る中、最大30人前後くらいの参加者が見学していました。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』会場の様子

受付を済ませると、順番に発掘調査現場の柵内に入場して、専門家の方から解説をして頂きました。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』見学会の様子

見学会の要旨

見学会でご説明いただいた内容の要旨は以下の通りです。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』発掘調査現場右側

上の写真において、穴の他に線のようなものが見られ各所に見られますが、この線はサブトレンチといって、遺構を壊さないよう発掘を最小限に抑えるためのものだそうです。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』発掘調査現場「発掘調査のために掘った穴」

また、このように折れ曲がった形の穴は、発掘調査を行うために掘った穴だそうです(従って、この穴は遺構と直接関係ない穴)。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』発掘調査現場「正倉院中央にあった4本の柱の遺構」拡大

この遺構(橘樹郡家の倉庫跡)は、建物の真ん中にも柱があったという事が今回の発掘調査で判明しました。

従って、建物の外側(周囲)の柱で支える側柱建物ではなく、建物の外側に加えて中央部分などにも柱を立てて建物を支える総柱建物であったと考えられるそうです。

この倉庫真ん中の柱ですが、柱を立てる場所の地面は30cmくらいの深さ(飛鳥時代当時だと、おそらく50cmくらいと推定)しか掘られていません。

しかし、建物外側の柱を建てる場所の地面は90cm程度も掘ってあります。

このことは、この倉庫は建物外側がメインの柱であり、真ん中の柱は建物の重みに耐えるために「つっかえ棒」のようにして立てた柱であったという証拠になります。

この柱を立てるために掘る穴についてですが、奈良時代(律令制の制定)以降は、建物外側の柱も内側の柱も全て、律令制の定めにより同じ程度の深さにそろえて掘られるようになりました。

そのため、橘樹郡家の中でも、今回発掘調査をしているこの倉庫だけは、奈良時代以前の飛鳥時代に建てられた、橘樹郡家の中で一番最初の倉庫と考えられます(他の遺構は、穴の深さが全てほぼ同一のため律令制制定以降に建てられたと考えられる)。

他の地域でも同一の建物が見つかれば、その地域の技術者が橘樹郡に来て建てた(技術をもたらした)という可能性が浮上します。

あるいは渡来人が技術を持ち込んだのかもしれません。

そうしたことを明らかにするため、川崎市教育委員会では各地の類例をこれから探すそうです。

下の写真における、長細いひょうたんみたいな線の部分は「柱を抜いた跡」です。

建物の解体時に、柱を全て抜いた際の痕跡です。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』発掘調査現場左側

下の遺跡群跡の地図における、紫色で示された建物が今回調査した地点です。

赤色(③など)で示されている遺構は現在、その多くが住宅地などの地下に埋まっています。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』地図

飛鳥時代から奈良時代にかけて大宝律令が制定され、郡がおかれ、建物は東西南北にきっちりそろえる事となりました。

それに伴って郡家を作るにあたり、紫色で示されている建物のうち、まだ使える建物は解体して場所を移して(赤色で示されている地点などに)郡家の建物として再利用したと推測されます。

下の写真は、建物の柱が立っていた、そして引き抜いた跡です。

『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』発掘調査現場「正倉院の柱の遺構」

柱は全部で16本あったと考えられますが、その柱を引き抜く際に掘られた穴が、なぜか2本1組で引き抜いた痕跡になっています。

これは、1本に1つずつ穴を掘ると合計16回掘る事になるので、横に2本1組で穴を掘って(当時の人としては)合理的に引き抜こうとしたのだと思われます。

これは珍しい方法です。

昨年の調査で発見された隣の建物も、同一の方法で抜かれているので、今回の調査により両者が同一の時期に一緒に建っていた事が判明しました。

2本1組みで穴を掘るという柱の抜き方も珍しいので、これも各地の類例を調査中です。

また、柱の穴は長方形に掘られていますが、実際には丸い柱が使用されていました。

角材は古代では基本的に使われていません。

飛鳥時代〜奈良時代は柱を立てる際に、なぜか長方形に穴を掘り、そこに丸い柱を据えて、埋め固めて柱を立てています。

縄文時代の竪穴式住居や弥生時代の建物を壊して立てられている。

橘樹郡家では、おそらく約100人くらいの役人が働いていたものと考えられています。

地層について、黄色い土は関東ローム層ですが、川崎は浅いので黄色の地層さえ出せれば遺跡が分かりやすい。

橘樹郡家跡周辺の史跡など

今回の発掘調査地点(たちばな古代の丘緑地)以外の、橘樹郡家跡についてはこちら。

(近日中に公開予定)

橘樹官衙遺跡群を構成する古刹・影向寺についてはこちら。

(近日中に公開予定)

橘樹郡の名前の由来となった、橘樹神社についてはこちら。

(近日中に公開予定)

アクセス

  • 名称:橘樹郡家跡(たちばな古代の丘緑地など)
  • 住所:神奈川県川崎市高津区千年字伊勢山台423-1など
  • 交通:川崎市バス・東急バス「千年」バス停下車徒歩約15分
    ※駐車場なし。

【併せて読みたい関連記事】武蔵国の国衙跡

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【参考サイト】

川崎市:橘樹郡家跡第32次調査 現地見学会を開催します!

古代の「正倉院」に思いはせて 市内初の国史跡・橘樹官衙遺跡群 来月5日に市民向け現地見学会:東京新聞 TOKYO Web

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