宗源院(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で討死した成瀬正義らが眠る寺

宗源院・紅葉と本堂(左側から)徳川家臣団ゆかりの地

宗源院は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。

宗源院には、徳川家康公の忠臣で「三方ヶ原の戦い」にて討死した成瀬正義の墓所があります。

また、同じく「三方ヶ原の戦い」にて徳川勢の旗手を務め、その撤退戦の最中に討死した外山正重の墓所や、同じく討死した遠藤右近の墓所もあります。

「三方ヶ原の戦い」で討死した家康公の忠臣たち

元亀3年(1572年)12月22日、三河・遠江を治める徳川家康公と、当時から「戦国最強」と怖れられた武田信玄が、三方ヶ原にて野戦合戦に及びました(三方ヶ原の戦い)。

合戦の結果は信玄の圧勝、家康公は惨敗して浜松城まで敗走します。

その最中、徳川勢は鳥居忠広、成瀬正義、本多忠真、田中義綱、中根正照、青木貞治らや、家康公の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣らが悉く討死しました。

しかし、彼らの尽力によって、合戦が信玄の思惑通りに進んだにもかかわらず、家康公は浜松城まで逃げ帰ることに成功しました。

近隣にある「三方ヶ原の戦い」で討死した忠臣たちゆかりの地

宗源院の近隣には「三方ヶ原の戦い」で討死した、家康公の忠臣たちゆかりの地があります。

本多肥後守忠真の碑(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公を守るために討死した忠臣
本多肥後守忠真の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の一角にある石碑です。 本多忠真は徳川家康公の家臣で、あの本多忠勝の叔父です。 忠真は「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、殿(しんがり)を務めてこの地で討死を果たしました。
夏目次郎左衛門吉信の碑(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公への恩を返して討死した忠臣
夏目次郎左衛門吉信の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の向かいにある記念碑です。 夏目吉信は徳川家康公の家臣でしたが、三河一向一揆の際には他の家臣らと共に離反して家康公に刃を向けました。 しかし捕縛された際、家康公の寛大な処置により許されます。 この時の恩義を忘れなかった吉信は、後年「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、家康公の身代わりとなって武田勢と戦い、犀ヶ崖の近くで討死を果たしました。

宗源院

宗源院は、曹洞宗の遠江一帯における拠点・普済寺の、13派の1つに数えられる古刹です。

徳川家康公とも縁のあるお寺で、宗源院の東南一帯にはかつて的場があり、家康公がそこで弓の稽古に励んだそうです。

境内には「三方ヶ原の戦い」の際に奮戦し討死にした成瀬正義や外山小作、遠藤右近など徳川方の武将のお墓があります。

また、今川義元の庇護を受けており、義元・氏真父子が書き残した直筆の半物『今川公判物』が現存しており、浜松市の指定文化財に指定されています。

宗源院・案内看板

宗源院

山号を宝蔵山ほうぞうさんといい、曹洞宗、普済寺十三派の在天派に属する。在天弘雲が十五世紀に開創した。本尊は虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ釈迦牟尼佛しゃかむにぶつ普賢菩薩ふげんぼさつ
今川氏の庇護をうけ、義元・氏真父子の判物はんもつが現存し、この古文書は、浜松市の文化財に指定されている。
閑静な山内さんないには三方原合戦の際、家康の身代わりとして戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重の墓があり、また浜松城主松平伊豆守信祝まつだいらいずのかみのぶときが娘多世姫のために建てたという墓がある。寺の東南一帯に的場まとばがあり、徳川家康が在城当時ここで弓の稽古に励んだといわれる。

浜松市

引用元:宗源院案内看板『宗源院』

また、境内にある別の看板には宗源院の沿革が書かれています。

宗源院・案内看板『一滴峯宝蔵山宗源院沿革』

山門・参道

こちらが、宗源院の山門です。

個人的には、生い茂る木々や石段の具合が、かなり好きな感じの雰囲気です。

宗源院・山門

宗源院の山門にある標石です。

宗源院・寺標

宗源院はこの良い雰囲気の参道を進んでいくと、境内が広がっています。

宗源院・参道

境内の様子

山門から参道の石段を登りきると、宗源院の境内が広がっています。

正面が本堂や成瀬正義らの墓所など、右手側に末社の稲荷社や鐘楼があります。

宗源院・境内の様子(入口付近)

こちらが宗源院の末社である稲荷社です。

宗源院・境内の弁財天と稲荷

稲荷社の扁額です。

弁財天も併存している模様。

宗源院・境内の弁財天と稲荷(扁額)

境内を奥まで進むと、本堂や不動堂があります。

宗源院・境内の様子(本堂)

鐘楼・梵鐘

こちらが、宗源院の鐘楼です。

宗源院・鐘楼

稲荷社の隣にあります。

鐘楼の中には、迫力のある立派な梵鐘が吊ってあります。

宗源院・梵鐘

本堂

こちらが、宗源院の本堂です。

宗源院・本堂

本堂の前には摩尼車まにぐるまがあります。

摩尼車まにぐるまは1回転させる毎に「お経を1巻呼んだのと同じ功徳が得られる」そうです。

宗源院・摩尼車(まにぐるま)

本堂は立派な面構えの、落ち着きある建物です。

宗源院・本堂(近景)

こちらが、宗源院本堂の扁額です。

宗源院・本堂(扁額)

宗源院の本堂近くは、秋になると美しい紅葉を楽しめます。

宗源院・境内の様子(本堂左側から)

檀信徒会館

本堂の横には、檀信徒会館があります。

宗源院・檀信徒会館

檀信徒会館の玄関にも、立派な扁額があります。

宗源院・檀信徒会館(扁額)

不動堂

本堂の左側には、不動堂があります。

宗源院・不動堂

宗源院・不動堂の扁額です。

宗源院・不動堂(扁額)

墓所順路

宗源院にある成瀬正義らの墓所は、不動堂の横から向かいます。

宗源院・成瀬正義墓所順路

道には案内の看板が立っていますので、進んでいきます。

宗源院・成瀬正義墓所順路2

墓所

こちらが、宗源院にある成瀬正義らの墓所です。

宗源院・墓所概観1

いくつかのお墓が並んでいます。

宗源院・墓所概観2

小笠原源太夫基長室千代子御墓所

こちらは、浜松城の奉行を務めた小笠原基長の妻・千代子のお墓です。

宗源院・小笠原源太夫基長室千代子御墓所

享保年間、基長は当時の浜松藩主・松平資俊に「源太夫堀」開削工事を命じられました。

五嶋新田と源太夫堀 享保年間に浜松東南海岸地域の松嶋・福嶋・西嶋・江之嶋・鶴嶋の五か村が共同で開発したのが五嶋新田で、このとき水路として開削した堀割がいわゆる源太夫堀である。
【海沿新田】源太夫堀の名称は、当時の浜松藩主松平資俊が五か村の願出により家臣小笠原源太夫基長に命じてこれを奉行させたので、村民がこれを徳として名づけたもので、その規模は馬込川から天竜川口にいたる三十五町余、開発された五嶋新田五十余町歩の田畑の灌漑用悪水放出用として、また浜松・掛塚湊間の物資輸送の水路として「高瀬舟為往来」とするところに目的があった。

引用元:『浜松市史 ニ』P.252~253「第五章 交通・産業経済の発展と町や村の生活 第四節 産業経済の発展 新田開発 五嶋新田と源太夫堀」ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム

松平伊豆守多世姫御墓所

こちらは、享保年間の浜松藩主・松平伊豆守信祝のぶときの娘・多世姫のお墓です。

信祝のぶときは前出の松平資俊の2代後に、浜松藩主を務めました。

宗源院・松平伊豆守多世姫御墓所

信祝のぶときは奏者番、大坂城代、老中などの要職を歴任し、時代劇『暴れん坊将軍』で松平健さんが演じた8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」にも参与した人物です。

外山小作藤原正重御墓所・遠藤右近御墓所

こちらは、外山小作藤原正重のお墓と、遠藤右近のお墓です。

宗源院・外山小作藤原正重御墓所・遠藤右近御墓所

外山正重は「三方ヶ原の戦い」で徳川勢の旗手として戦い、討死しました。

また、遠藤右近も同じく「三方ヶ原の戦い」で徳川勢として戦い、討死しました。

成瀬隼人藤蔵正義御墓所(成瀬正義墓所)

こちらが、成瀬隼人藤蔵正義のお墓です。

宗源院・成瀬隼人藤蔵正義御墓所(成瀬正義墓所)

成瀬正義は、天文4年(1535年)に正頼の長男として生まれました。

使番・旗奉行として家康公の主要な合戦の多くに参加しますが、永禄5年(1562年)に同僚を斬って出奔してしまいます。

しかし、翌年発生した「三河一向一揆」の最中に帰参を許され、一揆鎮圧に尽力しました。

その後、永禄11年(1568年)に起きた織田信長と六角義賢・義治父子の合戦「観音寺城の戦い(箕作城の戦い)」では、信長への援軍として派兵されて武功を挙げました。

また、元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」でも、織田徳川連合軍側として戦い、武功を挙げました。

元亀3年12月22日(1573年1月25日)、家康公と武田信玄が激突した「三方ヶ原の戦い」にも、正義は出陣します。

家康公が浜松城まで敗走する折に、正義が家康公の身代わりとなり、追手の武田勢と交戦して討死しました。

正義ら忠臣たち多くの討死により、家康公は浜松城まで逃げる時間を稼ぎました。

アクセス・案内情報

  • 名称:宗源院
  • 住所:静岡県浜松市中区蜆塚1丁目20-1
  • 電話:053-452-4443
  • 交通:浜松駅から遠鉄バス「広沢小学校」バス停下車徒歩約6分

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