徳川家康公の読書術|実は読書家だった家康公、何を読んでいた? 

徳川家康公の読書術|実は読書家だった家康公、何を読んでいた?図書館事業や出版事業まで行っていた天下人日本史|雑記

今回は、徳川家康公がどんな書籍を読んでいたかについてまとめました。

家康公は読書家であり、本から多くを学び、それが軍略や治世にも活かされています。

また、人格・人柄の形成にも大きな影響を受けたものと思われます。

では、家康公はどんな書籍を読んで、何を学んでいたのでしょうか。

家康公が手がけた図書館事業出版事業とあわせて、ご紹介いたします。

家康公と書籍・読書

家康公が確実(あるいはほぼ確実)に読んだ書籍と、蔵書として所持していた記録が残されている書籍は、次の通りです。

家康公が読んだ書籍一覧

小和田哲男静岡大学名誉教授の著書によると、家康公の読書遍歴は記録が比較的豊富に残っているようで、ある程度明らかになっているそうです。

家康の本好きは、家康の侍医であり側近でもあった板坂卜斎の証言がある。卜斎の著した『慶長記』によると、 『延喜式』や『吾妻鏡』といった和本だけでなく、 『論語』 『中庸』 『史記』 『漢書』『六韜』 『三略』 『貞観政要』をよく読んでいたという。
これらのうち、 『六韜』 『三略』は中国の兵法書であるが、 和本にしても、 中国の典籍にしても、歴史書の多いのに気がつく。家康は歴史書が好きだったのである。特に、鎌倉幕府創業の歴史が書かれている『吾妻鏡』を愛読していたことはよく知られている。

引用元:小和田哲男[2012]『図書館通信第24号』「徳川家康が作った図書館」(豊島区立中央図書館報)

家康公の読書遍歴を調べてみると、以下の書籍はほぼ確実に読んでいたようです。

【戦国大名らの必読書】

  • 四書五経ししょごきょう
    (四書=『論語』『大学』中庸ちゅうよう孟子もうし』)
    (五経=『易経えききょう』『詩経』『書経』『礼記らいき』『春秋しゅんじゅう』)

【兵法書】

  • 武経七書ぶけいしちしょ
    (『孫子』『呉子ごし』『尉繚子うつりょうし六韜りくとう』『三略さんりゃく司馬法しばほう』『李衛公問対りえいこうもんたい』)
  • 戦国策

【政治・思想】

  • 貞観政要じょうがんせいよう
  • 韓非子かんぴし
  • 群書治要ぐんしょちよう
  • 老子ろうし老子道徳経ろうしどうとくきょう

【歴史書】

  • 漢書
  • 十七史詳説
  • 史記
  • 吾妻鏡(東鑑)
  • 源平盛衰記

【古典法典】

  • 延喜式

他にも、当時の大名・武将階級における一般的なテキスト・教本として、以下の書籍もおそらく読んだものと思われます。

家康公は数え年で8歳から今川義元のいる駿府に送られ、人質生活を送っていました。

その人質生活の間、僧侶にして義元の参謀・太原雪斎たいげんせっさいに手習いを受けており、これは戦国時代当時として、かなりハイレベルな教育環境だったと言えます。

従って、こうした当時の大名・武将の子弟教育における一般的な教本等についても、いわば必修科目として学習していたと考えられます。

【当時一般的だった教本等】

  • 庭訓往来ていきんおうらい
  • 実語教じつごきょう
  • 童子教どうじきょう
  • 貞永式目(御成敗式目)

なお、家康公の読書傾向としては、やはり兵法書や軍記物が多いのですが、日本史・中国史両方の歴史の造詣も深く、そうした書籍も読んでいた事が伺えます。

逆に、和歌や詩などはあまり好まなかったそうです。

↓家康公が詠んだ和歌一覧↓

徳川家康公の和歌一覧|家康公はどんな和歌を詠んだのか?
今回は、徳川家康公が詠んだ和歌を特集します。 和歌は奈良時代末期に成立した『万葉集』など、日本における伝統芸能でも特に古い歴史を持ちます。 そんな和歌は詠み手の人間性や価値観、経緯や背景、理想や信念が滲にじみ出るものではないでしょうか。 家康公が詠んだ和歌から、家康公の人柄に迫ってみたいと思います。

実際のところ、家康公が詠んだ和歌の評価は決して高くなく、嫌いではないが好きでもないという程度の態度だったのではないかと思われます。

現に、家康公の侍医・板坂卜斎が記した『慶長記』によると、慶長5年のこととして以下の通り家康公の言葉が記録されています。

分かりやすい解説がありましたので、少し長いですが引用します。

家康の侍医・板坂卜斎の覚書には、家康の学問の傾向が次のように記されている。

家康公、書籍を好せられ、南禅寺三長老・東福寺哲長老・外記局郎・水無瀬中納言・妙寿院(藤原惺窩)・学校(足利学校庠主しょうしゅ三要元佶さんようげんきつ・兌長老(西笑承兌せいしょうじょうたい)など常々御咄なされ候故、学問御好、殊之他文字御鍛錬と心得、不案内にて詩歌の会の儀式有と承り候。
根本、詩作・歌・連歌は御嫌ひにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要和本は延喜式・東鑑(吾妻鏡)他。其外色々、大明にては高祖寛仁大度を御褒め、唐の太宗・魏徴を御褒、張良・韓信・太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々御咄なされ候。

すなわち、家康は和漢の古典籍を愛好し、南禅寺や東福寺の長老、大外記の押小路師廉、能書家の水無瀬兼成、朱子学者の藤原惺窩、足利学校の三要元佶、相国寺の西笑承兌といった人々とよく学問上の談話をしていたこと。詩作・和歌・連歌といった風雅の遊びは好きではなく、中国の儒書・史書・兵学書、日本の延喜式・吾妻鏡などの書物を愛読していた。人物としては、漢の高祖(劉備)の寛仁にして度量の大きいことを褒め、その他に唐の太宗、魏徴らを挙げて称賛し、日本では源頼朝をすぐれた人物として人々に話していた由であった。
(中略)家康の学問関心はそれ以外にも及んでおり、特に仏教に強い関心をいだいており、承兌や天海らの法話、宗教論議を聴くことは日常の習慣にすらなっていたほどであった。
神道についても同様であり、吉田神道系の人々から神道を伝授されていた。その他にも、『古今和歌集』『源氏物語』『伊勢物語』といった日本の古典に対しても深い関心を寄せており、これらを研究する和学をも尊重していた。家康の個人的な好みとしては、前述の中国古典の修学と仏教法話の聴聞にあったと思われるが、家康は同時に自己の興味の有無を超えて、天下公共の観点から伝統文化、古典文化一般は尊重されねばならないとして有形、無形の文化財保存の姿勢を示したのであろう。

引用元:笠谷和比古[2016]『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康――われ一人腹を切て、万民を助くべし――』(ミネルヴァ書房)P.362~P.364

ここから分かる傾向として、家康公は歴史・兵学・法律・軍記物・仏教・儒教に強い関心を持つ人物であり、一方で和歌や詩などの「風雅」はあまり好きではないものの「尊重すべき文化である」という観点から保護に尽力したという人物像が浮かび上がります。

さすがは稀代の天下人――といった人物像なのですが、実は近年の研究によると、家康公は一概に和歌などの「風雅」を好まない人物という訳ではなかったとする見方があるそうです。

その辺りの話は、改めて別の記事にてご紹介したいと思います。

家康公と小早川秀秋の意外な接点? 藤原惺窩と『貞観政要』と林羅山

家康公は文禄2年(1593年)に、当代きっての儒学者・藤原惺窩から『貞観政要』の講義を受けました。

以降、他の漢籍(中国の書籍)についても、惺窩から講義を受けています。

家康公と惺窩、後の稀代の天下人と当代きっての儒学者である2人が接点を持つきっかけを作った人物、それは何と、あの小早川秀秋でした。

家康が惺窩から初めて『貞観政要』の講義を受けたのは、文禄二年(一五九三)のことであった。(中略)秀吉が始めた文禄の役の前線基地である肥前名護屋(佐賀県唐津市)に在陣し、在陣中に惺窩から『貞観政要』の講義を受けている。文禄二年八月には京都へ戻り、十月に江戸へ帰り、十二月、江戸城で惺窩の講義を受けていたことが『惺窩文集』によってわかる。
(中略)家康が名護屋在陣中、惺窩と接触をもったのは、小早川秀秋との縁によるという。
(中略)家康は惺窩を召し抱えようとした。しかし、周知のように惺窩は辞退し、その代わりに弟子の林羅山を推薦し、林羅山が以後、家康の儒学の師となるのである。

引用元:小和田哲男[2014]『戦国大名と読書』(柏書房)P.157〜P.159

当時、惺窩は関白・豊臣秀次を避けて肥前・名護屋までやってきて、旧知の仲である小早川秀秋の元にいました。

それを知った家康公が秀秋を介して惺窩と接触を持ち、陣中講義が実現、その内容に感激した家康公は以降、度々惺窩から様々な講義を受けるようになります。

さらに、家康公は惺窩をお抱え学者として召し抱えようとしますが、それは惺窩に断られてしまいました。

しかし、惺窩から代わりに弟子の林羅山(林道春)を推薦されました。

以降、羅山は家康公の作戦参謀役の一人として大活躍していきます。

↓林羅山が関わった「方広寺鐘銘事件」と「大坂の陣」↓

方広寺鐘楼(京都東山)|徳川家康公を呪う「国家安康・君臣豊楽」の梵鐘
お寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の言葉が時の天下人・徳川家康公を激怒させ、大坂の陣は起こり豊臣家が滅亡した―― 学生時代、歴史を動かしたこの碑文を、日本史の教科書や資料集で見た人も多いのではないでしょうか。 今回は、京都・東山の方広寺を訪れ、ついにこの歴史的梵鐘を見ることができました。

家康公藤原惺窩、そして豊臣家を滅亡させた「大坂の陣」の引き金である「方広寺鐘銘事件」を作り上げた林羅山を結びつけた人物は、豊臣家ゆかりの小早川秀秋でした。

その秀秋自身もまた、後に「天下分け目」と言われるようになる「関ヶ原の戦い」において、家康公の勝利に多大な貢献をした(後から見れば豊臣家滅亡への道の始まり)というのは、単なる偶然なのかもしれませんが、歴史の妙を感じますね。

なお、家康公が惺窩から講義を受けた『貞観政要』ですが、これは名君と名高い唐の第2代皇帝・太宗による政治の要諦をまとめた漢籍の名著です。

当時から『貞観政要』を学ぶ戦国大名・武将は多く、家康公もその治世に際して多大な影響を受けました。

『貞観政要』は今日においても名著として名高く、人の上に立つ人を中心に良く読まれています。

家康公が熟読した『吾妻鏡』

家康公が最も熟読したと言われる書籍、それは『吾妻鏡』(東鑑)でした。

『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂した歴史書であり、編者・成立年ともに未詳です。

ですが、北条氏の一門である金沢氏を中心として、鎌倉幕府の実務を担当した人たちによって編纂されたとする説が有力だそうです。

内容は和風の漢文体で、歴代将軍の年代記風に書かれています。

いわば「鎌倉幕府公式歴史本」といった感じの書籍です。

家康公は源頼朝を尊敬しており、そのため『吾妻鏡』を熟読していたといいます。

家康公の『吾妻鏡』に対する熱量は相当なもので、このようなエピソードが残されています。

和書の『東鑑』はすでにみたように『吾妻鏡』のことで、家康の愛読書、座右の書といってよいが、(中略)この『東鑑』には隠されたエピソードがあった。
『東鑑』が刊行されたのは慶長十年のことであるが、従来は、その前年に『吾妻鏡』の一番の善本といわれた一揃いが、筑前福岡藩主黒田長政から徳川秀忠に献上され、それを家康が手にしていたとされていた。(中略)しかし、その後の研究で、全部献上したわけではなかったことが明らかにされている。
天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉による小田原攻めの時、(中略)籠城戦の最終段階で、秀吉の軍師黒田官兵衛が単身、小田原城に乗り込み、説得して開城に持ち込んでいるのである。
その時、引き出物として、北条氏直から(中略)北条家伝来の『吾妻鏡』が官兵衛に譲られていた。それを官兵衛の子長政が家宝として所持していたわけである。
そして、家康が伏見版『東鑑』を出版するに際して、自分の所蔵本とこの黒田家所蔵の北条本を底本として用いたといわれている。

引用元:小和田哲男[2014]『戦国大名と読書』(柏書房)P.232〜P.233

引用文中にある「自分の所蔵本」とは、家康公が黒田長政から北条版『吾妻鏡』を入手する以前に、家康公が各地から蒐集していた『吾妻鏡』のことです。

戦国時代末期当時、鎌倉時代に編纂された『吾妻鏡』は、すでに各地に散逸していました。

各地に散逸していた断片的な『吾妻鏡』を家康公は蒐集しており、さらに良質な北条版と組み合わせて、本来の形により近い形の家康公版『吾妻鏡』=『東鑑』を、家康公が伏見にて出版しました。

この家康公版『吾妻鏡』こそ、今日にまで伝わっている『吾妻鏡』なのです。

つまり、令和の世を生きる私たちが『吾妻鏡』を読む事ができるのは、家康公のおかげということになります。

家康公による貴重な書籍の蒐集は、その書籍が喪われることを防ぐための保護という観点と、出版により広く流通させて普及させるという観点と、2つの観点から行われていたようです。

また、家康公は蒐集した貴重な書籍の書き写しを3部作らせ、江戸城・紅葉山文庫、駿府城・駿河文庫、そして朝廷に納めました。

3か所に分けて保管していれば、どこかの蔵書が喪われても、貴重な書籍が途絶える事を防げるという、いわば文化財保護政策を実践していたという訳です。

さすが我らの家康公、書籍界にも太平の世をもたらすとは偉大な天下人ですね。

家康公が読んだのは『平家物語』ではなく『源平盛衰記』だった?

平清盛が率いる平家(伊勢平氏)に、源頼朝が率いる源氏が戦いを挑む「源平合戦」は、戦国時代当時にも大変有名な「合戦もの」でした。

しかし、多くの戦国大名・武将らが『平家物語』によって「源平合戦」を学んだのに対して、家康公が読んだのは『源平盛衰記』という書籍でした。

両者とも「源平合戦」を描いた軍記物ですが、何が違うのでしょうか?

また、なぜ家康公が読んだのは『平家物語』ではなく『源平盛衰記』だったのでしょうか?

(中略)「駿河文庫」の蔵書目録によると、和本として、『平家物語』と『太平記』ではなく、『源平盛衰記』が入っている。家康は源平争乱を、『平家物語』ではなく『源平盛衰記』によって学習していたのである。
ところで『平家物語』では、源頼朝が文覚もんがく(真言宗の僧)の勧めで挙兵したあと、すぐに富士川合戦の記述となっていて、挙兵の様子や、伊豆をはじめとする関東一円の武士たちを傘下に組み込んでいく過程の記事が欠けている。それに対して『源平盛衰記』では、頼朝による伊豆山木やまき館の襲撃をはじめ、石橋山の戦い、安房に逃れて再起を図る様子などが『吾妻鏡』よりもくわしく描かれている。頼朝に私淑する家康が、頼朝挙兵の一部始終が描かれる『源平盛衰記』の方に親近感を持つのは当然であろう。

引用元:小和田哲男[2014]『戦国大名と読書』(柏書房)P.170

家康公にしてみれば、諸行無常の世界観で描かれる「物語としての『平家物語』」よりも、挙兵・合戦・敗走・再起といった様子まで描かれている「より実態に近い形の『源平盛衰記』」の方が、実際に活用できる知識を得ることのできる教本として相応しかったのでしょう。

また、頼朝ファンだった家康公にとっては、頼朝の物語としても『平家物語』より『源平盛衰記』の方が魅力的な書籍だったようです。

そう考えると、家康公が『源平盛衰記』を読んだのは当然の選択だったのでしょうね。

家康公による学問の実践

家康公は、読書で得た知識をただ知識として終わらせるのではなく、実践することで軍事・政治に度々役立てています。

例えば、永禄3年(1560年)5月18日に家康公は今川勢の一員として、尾張国・大高城へ兵糧を運び込む際に、兵法書から得た知識を活用して作戦を成功させています。

翌5月19日に「桶狭間の戦い」が起こり、今川義元が織田信長に討たれますが、大高城にいた家康公は夜半に脱出して三河国・岡崎城を目指します。

その脱出劇の折にも、策を用いて敵中突破を成功させています。

この時、家康公は数え年で19歳でした。

今川が信長を攻めている時に、前線に兵糧を届ける大役を家康は命じられたが、そこは織田軍に取り囲まれて入り込む術がなかった。困った家康は落ち着いて『孫氏の兵法』を読み始める。「強い敵には餌を撒いて罠にかけるべし」、1カ所の敵陣に攻撃を仕掛けると敵は救援に集まってくる、その隙を縫って兵糧を運び、策は大成功。ところが大事件が勃発、信長が桶狭間で急襲をかけて義元の首を討ち取った。今川軍は離散し、家康は信長軍のど真ん中で孤立。そこでも冷静になって兵法書を読み始める。取った策略は、捕虜にしていた織田方の武将を先頭に立て織田陣営だと見せかけ敵陣地を通り抜けて故郷の三河に帰って来たのである。

引用元:黒木安馬[2017]『農業経営者2017年1月号「読書家の家康が日本を創った!」』(農業技術通信社)

また、元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が病没した時、信長が「本能寺の変」で自害した後、あるいは治世の基本方針にも、家康公は読書から学んだ知識を活用しています。

家康32歳の時、何度も攻め込まれて屈辱を味わった甲斐の武田信玄が死んで徳川最大の敵が消えた。そこで『孟子』を読んでみると、「敵が滅んだり心配事がなくなると国は滅びる」と。家康は、信玄の死を喜ぶ部下たちの前で一喝する。「信玄公のお蔭で我らもここまで強い軍に育ったのだ。敵ながら尊敬に値する立派な方だった!」。部下たちは心の大きな家康に心酔した。武田が滅び、信長が本能寺の変で殺される事件が続くが、『老子』の「恨みには徳をもって報いよ」に従って、家康は敵将をねんごろに祀り、大事にした。それを見ていた武田勢は家康の家来としてついてくる。家康の『東照宮御実紀』には、『論語』の、「政を為すに徳を以ってす」から引用して、「政は人心を得るにあり」と記載されている。

引用元:黒木安馬[2017]『農業経営者2017年1月号「読書家の家康が日本を創った!」』(農業技術通信社)

まさに、読書家としての一面が「戦国大名・徳川家康」を支える基盤となっている事が伺い知れます。

決して学問を知識として得ただけではなく、家康公は「実践知」として活かしていたという訳です。

家康公の蔵書と図書館事業「紅葉山文庫」と「駿河文庫」

家康公は私設図書館を作り、蒐集した書籍を蔵書していました。

なお、これらの書籍は家康公の蒐集した蔵書であり、実際に読んだかは分かりません。

しかし、家康公は相当な読書家ですので、一読した可能性が高いと考えられます。

【和書】

  • 先代旧事紀せんだいくじき
  • 古事記
  • 釈日本記しゃくにほんぎ
  • 日本書紀
  • 続日本書紀しょくにほんぎ
  • 延喜式(読んだ記録あり)
  • 建武式目

【漢籍】

  • 懐風藻かいふうそう
  • 経国集けいこくしゅう
  • 文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう
  • 群書治要(読んだ記録あり・駿河版として銅版印刷も行う)
  • 斉民要術せいみんようじゅつ

その本好きの家康が私設の図書館を作っていたことをご存知だろうか。家康は慶長十年(一六〇五)に将軍職を子の秀忠に譲り、自らは大御所となって、二年後、駿府城に移ったが、駿府城の中に、「駿河文庫」という図書館を作っているのである。蔵書数は千部、一万冊におよんでいたという。中には、『周易』や『斉民要術』といった中国の典籍にまじり、 『古事記』『日本書紀』のほか、『源平盛衰記』といったおなじみの本も含まれていた。

引用元:小和田哲男[2012]『図書館通信第24号』「徳川家康が作った図書館」(豊島区立中央図書館報)

なお、家康公は駿府城に移る前から江戸城内の富士見亭に、蔵書を保管するための文庫を創設していました。

この文庫の蔵書は家康公が駿府城に移る際に、二代将軍・徳川秀忠に譲り渡されています。

その後、秀忠から三代将軍・家光へ受け継がれますが、家光は寛永16年(1639年)に江戸城紅葉山の麓に書庫を新設し、蔵書を収蔵します。

そして「紅葉山文庫」と呼ばれるようになり、以降、代々の徳川将軍に受け継がれていきます。

徳川幕府が終焉すると、その蔵書は明治維新を経て新政府の手に渡り、今日では国立国会図書館が保管しています。

一方、駿府城に移った家康公は、駿府城内にも文庫を作ります。

「駿河文庫」と呼ばれる駿府城の文庫は、いわゆる「大御所政治」開始以降の家康公が蒐集した書籍が収められていきます。

しかし、この「駿河文庫」の蔵書、家康公の嫡男・秀忠には譲り渡されず、家康公九男・徳川義直(尾張徳川家の祖)、十男・徳川頼宣(紀州徳川家の祖)、徳川頼房(水戸徳川家の祖)に譲り渡されます。

家康公の蔵書は「義直5:頼宣5:頼房3」の割合で相続されたとか。

なお、後の第8代将軍・徳川吉宗は、松平健さん演じる『暴れん坊将軍』で有名ですが、吉宗は将軍在位中に江戸城内の「紅葉山文庫」の蔵書を充実させるために尽力しました。

吉宗は秀忠の直系ではなく頼宣の紀州徳川家出身ですが、家康公の読書家としての顔をしっかりと受け継いだ将軍でもありました。

家康公による出版事業「伏見版」と「駿河版」

家康公は大変な読書家であり、また書籍の蒐集家(コレクター)だった事は既に見てきた通りですが、実は書籍の出版事業まで行っていた事は、あまり知られていない事かもしれません。

既に前出の『東鑑』を出版する際に、木版活字による印刷を行っていましたが、これは「伏見版」と呼ばれるように、山城国伏見にて出版されたものです。

「伏見版」では、以下の書籍が出版されていました。

【伏見版の出版物】

  • 孔子家語
  • 六韜
  • 三略
  • 貞観政要
  • 吾妻鏡(東鑑)
  • 周易
  • 武経七書

(中略)下野しもつけの足利学校の分校として家康が伏見に建てさせた円光寺えんこうじ学校で、その中心になったのが「三要さんよう」、すなわち足利学校の庠主しょうしゅ(校長)だった閑室元佶かんしつげんけつである。家康は、この閑室元佶に、木版活字十万を与え、いくつかの本を出版させていた。「東照宮御実紀附録巻二十二」では、すべて「去年の冬」、すなわち慶長五年(一六〇〇)のこととしているが、実際は若干の時間差があった。今、はっきりしているものと、その出版年を列挙すると次の通りになる。

慶長四年(一五九九)『孔子家語こうしけご』『六韜りくとう』『三略さんりゃく
慶長五年(一六〇〇)『貞観政要じょうがんせいよう
慶長十年(一六〇五)『吾妻鏡あづまかがみ』『周易しゅうえき
慶長十一年(一六〇六)『武経七書』

ここで注目されるのは、『六韜』『三略』と、それを含んだ『武経七書』が家康の手によって出版されていたことである。おそらく家康としては、これら兵法書を単なる兵法書としてではなく、政治論書としての位置づけもしていたのではないかと思われる。というのは、兵法書の中に、上に立つ者の生き方を説いている部分があり、家康自身、歴史に学ぶべきことを感じとり、施政の方針に生かそうとしていたのではないかと考えられるからである。

引用元:小和田哲男[2014]『戦国大名と読書』(柏書房)P.110〜P.111

この後、慶長19年(1614年)には家康公の居城がある駿府にて、銅版活字による「駿府版」の出版が開始されます。

「伏見版」は木版活字であったが、「駿河版」は銅版活字を鋳造させている。「駿河版」誕生のいきさつは、『駿府記』の慶長十九年(一六一四)八月六日の記事によって判明する。(中略)金地院崇伝が家康に『大蔵一覧だいぞういちらん』を献上したところ、それを読んだ家康が、「これは重宝だ。百部か二百部印刷せよ」と命じたのが始まりである。
この『大蔵一覧』という本は、正式には『大蔵一覧集』といって、宋の陳実が、仏典の中から最も必要な部分を抜粋して編集したものである。銅版活字を使っての印刷は駿府城内で行われ、駿府の臨済寺および興津の清見寺といった臨済宗の僧侶にも手伝わせて、翌慶長二十年(一六一五)六月晦日に完成している。
「駿河版」のもう一つが『群書治要』である。この『群書治要』は、唐の太宗が魏徴らに命じ、群書の中から政治上の要諦を抜粋させたもので、「帝王学の書」などといわれ、元和二年(一六一六)一月から準備にかかり(中略)『大蔵一覧』と同じように銅版印刷である。

引用元:小和田哲男[2014]『戦国大名と読書』(柏書房)P.234〜P.235

【駿河版の出版物】

  • 大蔵一覧集
  • 群書治要(完成直前に家康公薨去)

なお、この『群書治要』の出版は林羅山と金地院崇伝が指揮を執りましたが、家康公はその完成を見ることなく、元和2年(1616年)4月17日に駿府城にて薨去されました。

その約1ヶ月後、5月下旬に『群書治要』は完成しますが、家康公により飛躍した羅山にとって、その完成を家康公に一目見せたかったことでしょう。

家康公を育てた今川義元の参謀・太原雪斎

家康公は幼少の頃から今川義元の人質として、駿府にて人質生活を送っていました。

しかし、実際には「人質」として様々な制約や屈辱もあったでしょうが、待遇そのものは非常に厚い待遇を受けていました。

その一つとして、家康公は幼い頃から今川義元の名参謀・太原雪斎たいげんせっさいから、学問の手習いを受けています。

当然ながら、その質は極めて高いレベルにあり、雪斎から受けた手習いが後の家康公の基礎を作ったと言っても、決して過言ではありません。

家康公が雪斎から受けた手習いについては、また改めてご紹介したいと思います。

↓家康公が太原雪斎から手習いを受けた部屋について↓

竹千代手習いの間|『麒麟がくる』人質時代の徳川家康公が太原雪斎に手習いを受けた部屋
竹千代手習いの間とは、徳川家康公が松平竹千代と名乗っていた幼少の頃、臨済寺の僧侶にして今川義元の名参謀・太原雪斎から手習いを受けていた部屋の再現展示です。 令和2年4月26日放送の大河ドラマ『麒麟がくる』紀行第15回でも、この部屋の再現展示が紹介されました。 竹千代手習いの間は、駿府城公園の東御門・巽櫓に設立された資料館で展示されております。 家康公は今川義元の下に送られて駿府で人質として過ごしていた頃に、雪斎から様々な知識を学び得ており、後の家康公の基礎が出来上がった時期でもありました。

参考文献・資料等

小和田哲男[2014]『戦国大名と読書』(柏書房)

小和田哲男[2012]『図書館通信第24号』「徳川家康が作った図書館」(豊島区立中央図書館報)

笠谷和比古[2016]『ミネルヴァ日本評伝選 徳川家康――われ一人腹を切て、万民を助くべし――』(ミネルヴァ書房)

黒木安馬[2017]『農業経営者2017年1月号「読書家の家康が日本を創った!」』(農業技術通信社)

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