八王子城跡|秀吉軍の前田・上杉・真田らを苦戦させた北条最後の激戦地

日本史|史跡巡り

八王子城は、豊臣秀吉の天下統一前に最後の合戦が行われた山城です。

八王子城跡の入口は、東京都八王子市元八王子町3丁目2664ー2にあります。

史跡の特徴

八王子城とは、戦国時代に北条氏照によって築かれた山城です。

関白・秀吉による小田原攻めで最後の決戦地となり、豊臣方の前田利家、上杉景勝・直江兼続、真田昌幸・信之・信繁(幸村)ら総勢5万の兵力を、北条方は僅か3千の兵で苦戦させました。

八王子城はその堅牢さをもって攻め手を苦戦させたと伝えられますが、とはいえ多勢に無勢で僅か1日にして落城し、北条方の兵は討ち死に、女子供は御主殿の滝で自害したとのこと。滝の水は3日3晩、血に染まって赤かったと伝えられているそうです。

また、八王子城跡については江戸時代に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』にも以下の通り記載されております。

舊蹟 八王子城跡

(中略)

天正十八年落城の時のことも、諸記錄に異同多し、先づその大概をいはゞ、城主陸奥守氏照は小田原に籠りて、留守には本丸に横地監物長次、中丸に中山勘解由左衛門家範・狩野主膳入道一菴、山下曲輪には近藤出羽守籠れり、寄手北國の大將前田利家・上杉景勝等押向ふ、秀吉寄手の兩大將無理の城攻あらんことを恐れ、太田小源吾一吉を目付としてさし下せり、六月廿三日北國勢朝がけに八王子の町口を押破り、霧間がくれに張番の輕卒等を撫切にし、追て城外へ詰めよせたり、本丸は景勝、中の丸は利家と定て、松山の先方を案内者として、山下曲輪を攻めさせたり、夜中にかゝつて大に戦ふ、近藤出羽守奮戦して命を隕す、これをみて本丸、中の丸の雑兵等、肝を消して大半落行けり、中山勘解由左衛門が手に屬せし七百人のもの、僅に百餘人、輕卒二百人ばかり残りけり、中山・狩野は残る士卒を勵まし、火玉を放て防ぎければ、寄手死傷數をしらず、利家父子しきりに下知して士卒をすゝめ、金子丸を乘とり、金子三郎右衛門を討取けるにぞ、寄手機を得て惣軍中ノ丸にとぞかゝる、中山・狩野は士卒をひきゐて打て出で、自鎗を合せ太刀打ちしてしばらく勇を奮ひけるが、もとより微勢なれば叶はずして引て入る、檢使太田小源吾一番に塀を乘ければ、諸勢つゞひて亂れ入る、中山狩野はこれまでと覺悟し、詰の城へ入て足弱兒女をさし殺し、腹切てぞ死にける、

(以下略)

引用元:蘆田伊人[1981]『大日本地誌大系11 新編武蔵風土記稿 第5巻』(雄山閣)
P.249〜P.251「新編武蔵風土記稿巻之百四 多磨郡之十六 舊蹟 八王子城跡」

上記の文を意訳すると以下のようになります(筆者は古文の知識が曖昧なので誤訳ご勘弁)。

天正18年落城の時のことも、諸記録に一致しない点が多い。
まず、そのあらましを言うならば、城主陸奥守氏照は小田原に籠城し、留守には本丸に横地監物長次、中丸に中山勘解由左衛門家範・狩野主膳入道一菴、山下曲輪には近藤出羽守が籠城している。寄手(城攻めする側)は北国の大将である前田利家・上杉景勝らが攻めた。
秀吉は寄手の両大将(利家・景勝)が無理して城攻めすることを恐れ、太田小源吾一吉を目付として同行させた。6月23日、北国勢が朝がけに八王子の町口を押し破り、霧間がくれに(北条方の)見張り番の軽卒等を撫で斬りにして、さらに城外へ詰めよせた。本丸は景勝、中の丸は利家が担当であり、松山の先方を案内者として山下曲輪を攻めさせたり、夜中にかかって大いに戦った。近藤出羽守が奮戦して戦死した。これを見て本丸、中の丸の雑兵たちは、びっくり仰天して大半が遠くへ逃げていった。
中山勘解由左衛門の部隊に所属する700人の兵たちは、僅かに100人弱、軽卒200人ばかり残る状態となった。中山・狩野は残る士卒を励まし、火玉を放て防ぐと寄手側に死傷者を多く出した。利家父子はしきりに命令を出して士卒を進軍させ、金子丸を占領し、金子三郎右衛門を討ち取ったので、寄手側は今こそ攻め時と考え全軍で中の丸に総攻撃した。中山・狩野は士卒を率いて打って出て、自ら槍を合せ太刀打ちしてしばらく勇敢に奮戦したが、もとより僅かな戦力では大軍に叶わず撤退した。
検使(使者)の太田小源吾が一番に城壁を登ると、諸勢続いて乱れ入った。中山・狩野は「もはやこれまで」と覚悟して、本丸に入って足の弱い者や女子供を刺し殺して、自分たちも切腹して自害した。

大意としては、このような意味だと思います。

率直に言うと、かなり生々しい合戦の光景が目に浮かびます。

籠城する北条勢が死力を尽くしながらも、多勢に無勢で敗北していくその様を想像しながら、この八王子城跡を見学されてはいかがでしょうか。

史跡データ

  • 発祥や築城年:1587年頃(天正15年頃)
  • 築城者:北条氏照
  • 喪失や廃城年:1590年(天正18年)
  • 別名や通称:ー
  • 城郭構造:山城
  • 所在地:東京都八王子
  • 最寄り駅などからの徒歩時間:霊園前・八王子城跡入口バス停より徒歩25分
  • 最寄り駅などからの徒歩時間:八王子城跡バス停より徒歩5分

※いずれも入口の管理棟までの所要時間。

アクセスマップ

Googleマップを挿入。

道中

今回はJR高尾駅北口より西東京バス霊園32「陣馬高原下」行きに乗車して約5分、中央自動車道の高架下にある「霊園前・八王子城跡入口」で下車しました。

 

下車したバス停のすぐ側に、周辺案内マップの看板が設定されております。

約15分くらい住宅地の道をひたすら歩くと、右手に北条氏照の墓所へ通じる道があります。


ただ、道路からの入口が少々分かりづらいというか、脇道の路面に「北条氏照墓」と書かれているだけでろくに看板もないので見落としやすいかもしれません。八王子城は多数の死者を出した城でもありますので、見学前にはやはり城主へのご挨拶をするべきだと考えた筆者は168段ほどの階段を登り、山中の墓所を墓参りをいたしました。

山中の竹林にひっそりと立つ、北条氏照公の供養塔。写真右の道から供養塔後ろに回ると、氏照公家臣団の墓所があります。

この地にて討ち死にを果たした猛者たちに思いを馳せながら、安らかなる眠りを祈り、墓所を後にしました。

元の道に戻り、ひたすら進むと、やがて「八王子城跡」というバス停が見えてきます。ぶっちゃけ、土曜・休日ならこちらのバス停で下車した方が無駄な体力を使わずに済みます。氏照公墓所を訪れるにせよ、こちらのバス停から少し戻って墓参りしたほうがいいと思いました。ただ、こちらのバス停は1時間に1本ペースでしか運行がないので要注意です。

さらに進むと、八王子城後ガイダンス施設なる建物があります。こちらでは各種パンフレットを無料でもらえたり、八王子城に関する簡単な情報を得ることができます。中でも、八王子城で戦国時代に使用されていたという出土品の中に、ベネチア産レースガラス器があったというのは驚きました。また、こういう施設ではよくありがちな大きなモニターで説明動画が流れているのですが、そのナレーションが『名探偵コナン』ベルモット役などで有名な声優の小山茉美さんっぽかったのも驚きました(明確に確認できた訳ではないのですが、そうっぽい声でした)。

見所1(大手門跡・古道・虎口・御主殿跡・御主殿の滝)

写真は八王子城跡の「入口」とも言うべき、管理棟前です。

八王子城跡の見学経路としては、主に大手門跡・古道・虎口・御主殿跡・御主殿の滝を巡るルートと、金子曲輪・小宮曲輪・松木曲輪・八王子神社・本丸跡を巡るルートと、この管理棟前から二手に分かれています。

写真左手に進むと古道・御主殿跡方面に、右手に進むと本丸跡方面に進めます。管理棟前には看板による案内などもあるので要確認。ボランティアガイドの方がいらっしゃるのも、この管理棟のようです。この先、一部の道はガイドの方が同行していないと通行できない箇所があります。また、マムシ注意の掲示物もあったりします。

古道・御主殿跡方面の道は比較的歩きやすい道で、森林散策気分で進めます。少し進むと左手に、一級河川城山川の上流端があります(緑色の看板で案内があるので分かりやすい)。

川沿いの道を進むと順路案内があります。左手の橋を渡ると、大手門跡→古道→曳橋→虎口→御主殿跡を見られます。まっすぐ進むと御主殿の滝→御主殿跡に進めます(こちらは江戸時代に新しく追加された道との事。ちなみに本来、築城された戦国時代当時は、御主殿に入る道として古道が使用されていた)。

おすすめは大手門跡の方を見てまわるルートで、大手門跡→古道→曳橋→虎口→御主殿跡→御主殿の滝→管理棟前の順番で通るのがおすすめです。

橋を渡ると大手門跡の手前に出ます。少しスペースがあり、いい具合の森林を楽しめます。写真左奥に見える階段を登ると直角に右折する角がありますが、そこが大手門跡です。

看板の案内によると、1988年(昭和63年)に行われた発掘調査にて、この場所に大手門があったことが判明したとのこと。現在は遺構保存のため、再び地中に埋められているようです。

大手門跡から古道を進むと、曳橋があります。曳橋自体は残念ながらコンクリートの現代的な橋で、あまり見所はありません。

しかし、曳橋を渡りきった先に虎口があり、これらの石垣は復元でこそあるものの、400年前の築城当時に築かれた石垣の石材をなるべくそのまま使用して復元された石垣です。八王子城の石垣は自然の石を自然な形のまま積み上げ、隙間を小さな石で埋めて安定させる野面積みという工法で築かれた石垣です。城を見るときは石垣の積み方を見るのも楽しいですので、興味ある方はぜひ注目して見てください。

野面積み(のづらづみ)
自然石をそのまま積み上げる方法である。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点があったが排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代のことである。

(Wikipediaより引用)

 

虎口の左側。

虎口の右側。

虎口は通り抜けることが可能で、築城当時の石垣を楽しむことができます。

順路は右手に進みますが、左手の行き止まりに行くと築城当時から現存する石垣があります。必見です。

この角の部分が400年前の築城当時から現存する石垣のようです。案内板が設置されております。

御主殿に通じる虎口(こぐち)です。約9mの高低差をコの字型に折れ曲がるように階段と踊り場が設置されており、敵の侵入を遅らせる防御機能を持ちます。城の入り口にはこういったスポットもあるので注目するのも面白いです。

階段手前の平らな部分には左右に2個ずつ石が出っ張って配置されており、この4つ石は建物礎石であり、物見や指揮をするための櫓門が建設されていた可能性があるとのことです。

虎口を抜けると、いよいよ御主殿跡です。この一見原っぱのような広場に見える場所が御主殿跡です。ここには城主・北条氏照の館などがあったとされております。

虎口から入って右手側には遺構があります。平成4年度・5年度、平成25年度に実施された発掘調査にて「主殿」「会所」と推測される大型の礎石建造物などが見つかったとのこと。遺構保護のため、現在は60cmほど地中に埋めて、その上になるべく忠実に遺構を再現してあると案内板に書かれていました。

案内の看板があるので、どこに何があったのかを確認しながら見て回ると分かりやすいです。

写真手前の石などは庭園跡、写真奥の台みたいになっている建造物は会所跡です。会所は主殿で儀式などを行なった後に、宴会などを開くのに使われたようです。

会所跡は建設当時の間取りを見ることができ、隣には敷石道路の跡が確認できます。

御主殿跡には他にも様々な遺構があるので、ぜひ隅々まで見て回ってください。

御主殿跡から降りると、川沿いに出ます。そのまま管理棟前に戻る道を少しだけ進むと、右手に御主殿の滝があります。この滝は八王子城の落城時に、御主殿にいた北条方の武将や婦女子らが滝の上流で自害したため、その血で滝を流れる水が三日三晩赤く染まったと言い伝えられています。八王子城が一部で心霊スポットと呼ばれる所以とされる場所です。

川沿いに道を進むと、管理棟前に戻ってきます。

 

見所2(金子曲輪・小宮曲輪・松木曲輪・八王子神社・本丸跡)

管理棟前から右手に進むと、本丸跡方面の道が続いています。ただし、平易に進める御主殿跡ルートと異なり、本丸跡ルートは登山です。滑落注意とか物騒な看板があります。ちらほら歩いている方々の装備を見ても、多くが登山の格好をしていました。

こちらが入り口となります。

少し進むと、すぐにこういった山道になります。これはまだマシな方です。

所々、こういった階段もあります。

やがて少し道が広がっている場所にたどり着きます。ここが金子曲輪跡で、かつて氏家の家臣・金子三郎右衛門家重の守備する曲輪があった跡地です。尾根を雛壇状に作ることで、敵の侵入を遅らせる工夫がされています。現在はベンチが設置されており、小休憩を取ることができます。

金子曲輪から更に進むと、道が2手に分かれる場所があります。ここは柵門跡と呼ばれているそうですが、名前の由来は不明と看板に書いてありました。写真の左手側が本丸へ続く道で、右手側が陣馬街道へ続く道です。

9合目付近に高丸跡がありますが、この先危険とあり先には進めません。

八王子神社手前の山道では、木が切り開かれている箇所があり東南の方角を一望できます。ちなみに、見晴らしのいい景色を楽しめる展望スポットは、ここと後で出てくる松木曲輪くらいだと思います。これだけ一望できれば、接近する敵方の兵が丸見えだったと思われます。

マップでは東屋と記載されている場所には案内看板があり、本丸周辺にある曲輪の位置について説明されています。なお、この東屋に頂上と記載されている石が設置されていました。

東屋を通過すると、八王子神社があります。山の中で静かに佇む趣ある場所です。八王子城の守護神「八王子権現」が祀られております。

左手に進むと、松木曲輪があります。

松木曲輪は中山勘解由家範らが守備していたと言われています。八王子城攻めの時に奮闘したため、その武勇を惜しみ攻め手側の前田利家が助命を申し入れたと伝えられています。この松木曲輪からも周辺が一望できます。

その後、東屋に戻り小宮曲輪への道を探しましたが、これが迷いました。東屋にある案内看板の奥から進めます。

ただし、道を見失うような箇所があり、写真のように生い茂る草をかき分けなければ進めない道になっています。

小宮曲輪は狩野一庵が守備したと伝えられています。八王子城攻めでは上杉景勝軍に攻められて陥落し、ここの陥落によって山頂の曲輪が次々と破られたそうです。

八王子神社の奥にある本丸への道を進むと、いよいよ本丸跡にたどり着きます。

こちらが八王子城本丸跡です。八王子城の本丸は横地監物吉信が守備していたと伝えられています。平地が少ない狭い場所なので、あまり大きな建物は建てられなかっただろうとのことです。現在は石碑と社が建つのみとなっており、かつての激戦を偲ぶ思いになるような、とても静かな空気が流れていました。

おわりに

かつて、八王子城は規模が大きく堅固な山城として、北条家を支えました。

しかし、天下統一まであと一歩に迫る豊臣方の巨大な兵力の前に、城は僅か1日にして落城を迎え、多くの死者を出しました。

八王子城の落城により北条方は降伏を決断し、八王子城の城主である北条氏照は北条家先代当主の氏政らと共に、秀吉から切腹を命じられました。

城を見に行くというと、やはり後世の復元であっても城が建っていないと見に行かない人が多いように思います。

八王子城跡には今日、既に城が残っておりませんが、随所に在りし日の名城の痕跡が見られます。

一見に値する山城跡だと思います。

※本記事は昨年、筆者自身が他のサイトにアップした内容を当ブログに転載したものです。

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